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死を過剰に恐れずにすむ思考法

※今回の記事は自殺を推奨するものでは断じてない。



こんにちは、サイコパス斉藤です。今日はぼくの持論を聞いてください。





みなさんは死をどう捉えているだろうか。辛いものだろうか。苦しいものだろうか。


ぼくにとっては「自然」なものだ。いずれ訪れることなので、過度に恐れてもいないし、過度に楽観視しているわけでもない。ただ明日死ぬとしても特に後悔はしない。その思考法を説明していこう。



○きっかけは好きだった女の子

ぼくは高校の時、好きだった女の子がいた。その子は内気な性格で、友達といえば飼っている犬かぼくだった。独自の世界観を持っている子で興味深かった。


ある日その子の飼い犬が死んだ。その子は学校を2週間ほど休んだ。辛かったのだろう。

そして久々に学校に来たとき、意外にも笑顔でこう言った。


「最初は悲しかったけど、よく考えたら犬も私も宇宙も同じ存在だから、存在として生きている限り、死を恐れる必要はないよね。」


??????


当時18歳のぼくは全く意味がわからなった。宗教やん。と思った。



だが現在四年の月日を経たことで彼女の言っていた意味がなんとなくわかるようになった。順を追って解説しよう。

前提1 我々は人間である前に存在である

この世界には様々なものが存在している。人間、犬、猫、木、…

これらは何なのかとまず考える。人間はまず哺乳類。哺乳類は動物。動物は生物。…としていくと行き当たるのは

「存在」である。犬も猫も木もボールも「存在」にカテゴライズされる。我々はみな「存在」なのである。


人間がこの「存在」の中でも、特異なのは「一個体」の死に執着することだと思う。なまじ知能が発達し、様々な感情を会得したことで、他の動物には見られない素晴らしい特異性を身につけた。



今回はその特異性を一旦無視してみよう。


存在レベルで考えてみてほしい。

「存在」というカテゴリーで見れば、全ての存在物はみな等しい。犬を見ても犬としか思わないように。

我々が人間に生まれたのはたまたまだ。他の犬や猫に生まれてもおかしくはなかった。全てが「存在」であるなら、何で存在してもおかしくはない。



生物学的な理論はおいといて、イメージしてほしい。あなたは椅子として存在してもおかしくないのだ。全ての存在が持つ特異性を除外して考えると、全ては等しいのだ。


前提2 質量保存の法則

これも理論の正統性とかは無視してイメージしてほしい。この世の形あるものはいつか壊れる。動物であったら死、である。

死んだあと死体は土に還る。その後は肥料になるかもしれない。木の栄養分になるかもしれない。その木は果実を実らせるかもしれない。

…というように、全ての存在の質量が保存されるのであれば、必ず何かしらの存在に還元されるのだ、とイメージする。

つまり我々を人間ではなく、存在として見ると、どこかに何かしらの形で存在し続けるのである


前提1と前提2を踏まえると、彼女の言っていたこととつながる。犬が死んだとしても、私と同じ存在であるのだから、またどこかで別な形で存在している、と。



こういう思考法でぼくは生きている。こんな話を人にすると、頭がおかしいとよく言われる

この思考法を通してぼくが言いたいことは、死はいずれ訪れるもので、それを過度に恐れていると、生も楽しめなくなるということだ。


せっかく人間として存在しているのだから、この人間ライフを精一杯楽しもう。

そういうことだ。


この思考法で考えてみると、大胆に行動できる。ぼくは会社をやめた。

来世はエーゲ海がいいな。


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さあ、みなさんは来世何がいいですか。

以上だ。