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人が死ぬとなんで悲しいんだろう

ぼくの祖母は末期の癌だ。

意識が混濁しており、会話もままならなくなってきた。一ヶ月前までは本当に元気だった。

日を追うごとに症状が悪化しており、ぼくは祖母の「死」を意識するようになった。

祖母が死ぬことを想像するだけで悲しくて涙が出そうになる。


ぼくは以前このような記事を書いた。

死を過剰に恐れずにすむ思考法 - 旅×哲学=失業


そして理論としていずれ自分に訪れる死の恐怖を克服したつもりだった。


なぜ人のことになるとこうも悲しいのだろう。

人間はいつか死ぬ。想定できることが起こっている。

動物的に見れば一個体の死に過ぎない。

なのに悲しい。今までの優しくしてくれた思い出を考えると涙が出そうになる。

人間の生きている意味が子孫の繁栄だとして、一見必要なさそうに見える「愛情」や「思い出」がこうも人を悲しくさせる。



よくわからなくなる。


「悲しくて涙がでる」ってすごいと思う。


普通なら「叩かれる→痛い」のようにまず体に原因があって感情がわくのに対して、「悲しい→涙が出る」は感情を起因として体に現象が起こっている。

感情が体を超越しているような感じ。


ぼくはずっと人間は所詮動物の一種、「愛情」や「悲しみ」は後付けだと考えていた。

でもその「愛情」や「悲しみ」によってぼくはものすごく揺さぶられている。祖母を大事にしようとしている。理論を越えて感情で動いている。


ここまで悲しいと考え方が変わってきた。

ぼくは「動物」である前に「孫」なんだ。

後付けでもなんでもいいが、祖母にはずっと長生きしてほしいのだ。

人ってほんと何のために生まれてきたんだろう。本当にわからない。

どんなに成功した大金持ちも、末期の癌患者も死は平等に訪れる。

祖母の病室には多くの人が訪れて思い出話や感謝の気持ちを述べに来たりする。

祖母は「いい人生だった。」とよく言いだした。


「いい人生」


どうすればいい人生になるのだろう。わからない。死ぬ前じゃないと多分わからない。死ぬ間際に今までの人生を振りかえるのだろう。

なにをもっていい人生とするかはその人によるだろうが、共通して言えるのは後悔しないことだと思う。

どれだけ失敗しても妥協しても最期に後悔しない人生。


祖母は今でもぼくのことを気遣ってくれる。

こういう人になりたい。

死は悲しい。悲しい。悲しい。その人が物質的にこの世から消えてなくなるのが信じられない。


だが思い出は残る。その人の哲学や世界観はずっと忘れない。それを思い出すだけでいつでも会えるような気がする。


大事な人がいる人は、話せるうちにたくさん話しておこう。その人の考えかたをこの世に保存しておこう。それはずっと消えない。


人間は動物にすぎない。でもそんなもん通り越すような愛情や悲しみで溢れている。不思議な動物。


人が死ぬとなぜ悲しいんだろう。理由はない。理屈抜きでその人が好きだからだ。



祖母とこれからも死ぬまで思い出を作ろうと思った。

最早日本人にとって映画は前戯だ


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全世界60億人のフットボールファンのみなさん、こんにちは サイコパス斉藤です。


旅人、哲学者でありながら、さらに映画評論家としての一面を持つぼくが今日は日本映画に一石を投じようと思う。

日本人にとって映画は前戯だ!



目次

最近の邦画面白くなくない?


ぼくは最近といえば洋画しか見なくなり、邦画を見る機会は減った。


それでも過去に素晴らしい邦画作品に出会ってきた。厳選して2つ紹介しよう。

「パッチギ!」

パッチギ!

パッチギ!

日本映画界の問題児 井筒和幸監督の代表作。1968年京都、まだ人種差別が根深かったこの時代に主人公 康介は朝鮮高校に在籍するキョンジャに一目惚れする。しかしキョンジャの兄はその高校の番長であった。二人の恋の行方は…

井筒監督のお家芸であるエロとバイオレンスを巧みに織り交ぜつつ進行するこの物語は、差別とは何か、人種とは何か、人を愛するとはどういうことかを不器用に教えてくれる。そして見終わった後には、爽やかな気持ちと一歩踏み出す勇気を与えてくれるだろう。現代人だからそこ見てほしい、民族間を越えた愛の物語だ。




「誰も知らない」

誰も知らない

誰も知らない

今や日本映画界を担う存在となった是枝裕和監督の衝撃作。1988年巣鴨置き去り事件を題材とした本作は、母親の失踪後、過酷な状況の中、柳楽優弥演じる長男が幼い弟妹と共に生きていく姿を描いている。これが日本社会で起こっている現実なのか、とあまりにも酷な展開に目を覆ってしまいたくなるが、カンヌ国際映画祭にて最優秀主演男優賞を受賞した柳楽優弥の演技は我々に何かを強烈に問いかけてくる。

「考えさせられる」という言葉が受け身で苦手であったがこの映画観賞後一週間は誰しもが自分の家族、日本社会について「考えさせられる」ことは必至だろう。家族との繋がりが希薄な現代、私たちはとても大切なものを当たり前に手放してはいないだろうか。ぜひ一人で観てほしい。


そう、このように素晴らしい作品はごまんとある。


だが最近の邦画はどうだろうか。


主演を見てみると菅田将暉、福士蒼汰、山崎賢人、福士蒼汰、福士蒼汰、菅田将暉…

飽きた。


確かに素晴らしい役者であると思うが、本当に飽きた。テーマも似通った恋愛ストーリー。

それでもティーンたちは熱狂し映画はランキング一位獲得…さながら角砂糖に群がる蟻のようだ。←上手い


なぜ邦画はつまらないのか

ぼくが思う邦画がつまらない理由はいくつかある。


○銃社会でないこと…アクションシーンでどうしても不自然な図になり、洋画と比べてショボい


○予算…やはりハリウッドなどに比べると予算の規模が違うため、どうしても低予算で作れる人間関係物を作りがちになる。それはそれで素晴らしいのだが、暗くぼぞぼそしゃべる映画ばかりだとうんざりする


○カップルをターゲットにしている


これだ。もうダメだ。映画配給会社の狙いは女性客やカップルだ。重厚なストーリーはカップル受けしない。なぜならその後セ○クスしようと思えないからだ。

アフリカの虐殺を描いた作品と、菅田将暉が主演する学園恋愛映画。どちらが観賞後セ○クスしようと思えるだろうか。
答えは言うまでもない


多くの若者にとって映画鑑賞とはデートの一部分だ。

まあそれは全く問題ない。

しかし媚びる必要はあるのだろうか。


日本の映画配給会社は、海外の虐殺や紛争を描いた映画をなかなか買い取らない。なぜなら元がとれないからだ。

利益を追求するのはわかるが、映画本来の目的はなんだろうか。利益を重視して、偏った趣向の映画を上映し続けるこの国を、文明国と呼べるだろうか。カップルのセ○クス前の導入として映画を選ぶこの国を、だ。



なぜ映画を観るのか


ぼくにとって映画を見る目的というのは「他人の価値観に触れること」だ。
他者の解釈に憧れ真似してみたり、納得できなかったら議論したりする。自分の幅を広げる感じが最高に楽しい。


人間は理性の動物であり、この世界に意味を作るために映画や宗教を産み出してきた。そのほうが楽しいからだ。他の動物と違い、世界を物語として捉えることが出来るのは人間の特権であり、最も誇るべき能力だと思う。




ぼくはその崇高な作品を道具に使われているようで、言葉にし難い強烈な違和感を感じているわけだ。

本来映画鑑賞においては映画が主役のはずなのに、脇役になってはいないか?


日本で公開されていない海外の名作はたくさんある。他者の解釈に触れる機会を損なっている。もっともっと映画を見るべきだ。


映画とは制作者の哲学を伝えるための媒体だ。哲学とはその人の人生である。さればこそ我々はみな哲学者なのである。



哲学者諸君、そろそろ本気で映画を観ないか?映画館デートもするがいい。それとは別に他者の哲学に興味はないか?


まず鑑賞者が変わることによって、需要も変化し、さまざまな映画が上映されることに繋がるだろう。


私は日本が多種多様なジャンルの映画が上映される国になることを祈っている。










まとめ

つらつらと不満を書いてきたが、一言で言うと上映開始後に入館するのやめていただけませんか?だ。

持つべきものは友!初月の運営報告

こんにちは、サイコパス斉藤です。


どうもこのブログ業界では、運営報告と言ってPV数や収益を自慢するのが風習らしいので、ブログを初めて1ヶ月がたったぼくも運営報告をしようと思う。

○目次

PV数(はてなカウンター)

PV数は25369だった。


これはぼくが凄いのでは決してない。

locafra.com

この記事を執筆した前田君のおかげだ。この記事内で彼がぼくのブログを紹介してくれたことでその日のアクセスは一万を超えた。


ぼくは彼に忠誠を誓うことにした

記事数

15

感想 少なそう

読者数

56

感想 ぼくは自分のファンを作るためにブログを始めたのでこれはうれしい。ぼくはファンづくりのためにTwitterでためになることをつぶやいているのでぜひフォローしてほしい。

収益

0 感想 特になし

来月の目標

早寝早起きを心がける。

親愛なるジャンプ前田へ

あたたがこの記事を読んでいるということは、この記事のurlをクリックしてアクセスしたということなのでしょう。

ぼくは最初に君がブログをしていてそこそこ稼いでいるという話を聞いた時に、すでに今日までのシナリオを構築していました。


ほんとうにありがとう。ぼくは君が誰よりも優秀なことを知っています。これからも君のネームバリューに乗じて、売名活動をしていくつもりなので、いつもの爽やかナルシストスマイルで快く許してください。


まとめ

以上で運営報告を終えるが、これからブログを始める人に対してのアドバイスとして「ブラック企業に同期入社した人の中に、ジャンプ力ありそうなやつがいたら友達になったほうがいい」という言葉を贈りたい。

「自分が嫌い」は逃げであるということ

こんにちは、サイコパス斉藤です。


「あなたは自分のことが好きですか?」という問いにyesと答えられる人はどれくらいいるのだろう。


ぼく自身も自分のことが好きになれない時期があった。自分の容姿が嫌だ、性格が嫌だ、ここがコンプレックスだなど、理由は様々だ。



だが最近になって「自分のことが嫌い」というのは「逃げ」であると確信した。

順を追ってぼくの考えを述べていく。

○目次

○なぜ自分を嫌うのか

そもそもなぜ自分のことを嫌うのだろうか。ほとんどの場合は自分の短所ばかりに目を向け、自分のことを低く評価するからだ。

自分の身体的コンプレックスを他人と比べ、劣等感に苛まれる、といった具合に。

ではなぜ自分の短所ばかりに目が行くのか。人間には必ず何かしらの長所があるはずだ。


結論から述べると、「短所があるから自分が嫌い」なのではなく、「自分を好きになりたくないから、短所を探す」のである。


理解しづらいと思うので説明しよう。たとえば人前で話すことが苦手で人前に立つと必ず頭が真っ白になる人がいるとする。

それをずっと避け続ける人がいるとする。その人は人前に立ちたくないために頭が真っ白になるという現象を必要としているのである。


その人にとって一番避けたいのは、人前で話すことに大失敗し、周りの人から嘲笑され、自分を否定されることだ。でもその人は「自分は必ず頭が真っ白になるから仕方ない、人前で話せないのは、この頭が必ず真っ白になる現象のせいだ」「頭が真っ白にならなければ自分は人前で上手に話せるはずだ」と、可能性の中で生きることができるのだ。

そのため人は自分の短所に目を向け、自分を嫌おうとするのだ。

自分を嫌いになる人の状況は様々だが、その目的は詰まる所「他者に自己を否定されたくない」ということに帰結する。

〇劣等感自体は悪いことではない


「短所」という話をした。この世界
に生きていたら、誰でも多かれ少なかれ劣等感を持ちわせているだろう。スポーツで周りのチームメイトを見て劣等感を抱いたり、受験勉強で周りの成績を見てそれを抱いたりといったように。

しかし劣等感自体を否定する必要はないのだ。人より何かで劣っていると感じることは、努力や現状打破の契機となりうるからだ。

劣っているからこそ、周りに追いつくために、必死で努力することは大変素晴らしいことだ。

しかし問題になってくることはその劣等感をコンプレックスと捉えて、何も行動しなくなること。

人のコンプレックスを聞いてもなかなか共感できないことがある。友達に生まれつきくせ毛で、ぼくはそれがオシャレに見えてかっこいいと感じていたのだが、その友達はコンプレックスに感じていた。

つまりその事実をプラスとするかマイナスとするかはその人の解釈次第なのだ。

世間一般的に学歴が低い人がいるとする。学歴が低いこと自体は単なる事実にすぎない。それをコンプレックスと捉えてしまう、「自分が成功できないのは、この学歴のせいだ。もし学歴が高かったら成功しているはずだ。」となかなか行動できないのだ。

事実を言い訳とするか、契機とするかはその人の解釈次第だ。

〇他者と比べる必要はない

そもそもこのような劣等感をコンプレックスとしてしまうのは、他者と比べてしまうからだ。言い換えれば、自分を嫌いになってしまうのは、他者が存在するからだ。

ということは、他者に対する考え方を変えることが必要となってくる。日本社会は常に他者との比較の中に生きている。勝ち組負け組という概念がある。

断言するが、人生は他者との勝ち負けではない。

人と比べている人は、自分に自信がない人だ。自分に自分を評価する明確な基準がないから、他者に承認してもらわないと安心できない。

他者が存在しないと自己を肯定できないのは寂しいことである。

ひとそれぞれ人生の土俵は違うのだ。違う土俵で戦っている人に口出しする必要はないし、もし口出ししてきても、それは見当違いだ。

そして比べる対象があるとすると、それはまぎれもなく自分自身に他ならないのだ。

〇他者にどう思われてもいい

ようするに自分が嫌いな人は誰からも嫌われなくないのだろう。他者に嫌われたくない人というのは極めて自己中心的な人間だ。劣等感をコンプレックスに捉えて行動しないことも、他者に承認されるために行動する人も結局見返りを求めているのだ。自己に執着しているのだ。そんな生き方はもうやめよう。あなたはあなたの人生を生きればよいのだ。


〇自分が嫌いはもうやめよう

自分が嫌いで周りに好かれたい人の状況は例えるとこうだ。「この料理食べてみて!おれは嫌いだけど食べてみて!」

どうだろう、相手に失礼ではないだろうか。劣等感という事実を乗り越えて、一歩踏み出すために必要なことは、今の自分を受けいることだ。そしてまず自分を承認することだ。それからどう生きていくかだ。自分がやれることはやろう。

それを他者が評価するかどうかはいったん置いておこう。



ぼくは会社を辞めて、自分のやりたいことをいろいろ考えている今の自分が好きだ。


「あなたは自分のことが好きですか」



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死を過剰に恐れずにすむ思考法

※今回の記事は自殺を推奨するものでは断じてない。



こんにちは、サイコパス斉藤です。今日はぼくの持論を聞いてください。





みなさんは死をどう捉えているだろうか。辛いものだろうか。苦しいものだろうか。


ぼくにとっては「自然」なものだ。いずれ訪れることなので、過度に恐れてもいないし、過度に楽観視しているわけでもない。ただ明日死ぬとしても特に後悔はしない。その思考法を説明していこう。



○きっかけは好きだった女の子

ぼくは高校の時、好きだった女の子がいた。その子は内気な性格で、友達といえば飼っている犬かぼくだった。独自の世界観を持っている子で興味深かった。


ある日その子の飼い犬が死んだ。その子は学校を2週間ほど休んだ。辛かったのだろう。

そして久々に学校に来たとき、意外にも笑顔でこう言った。


「最初は悲しかったけど、よく考えたら犬も私も宇宙も同じ存在だから、存在として生きている限り、死を恐れる必要はないよね。」


??????


当時18歳のぼくは全く意味がわからなった。宗教やん。と思った。



だが現在四年の月日を経たことで彼女の言っていた意味がなんとなくわかるようになった。順を追って解説しよう。

前提1 我々は人間である前に存在である

この世界には様々なものが存在している。人間、犬、猫、木、…

これらは何なのかとまず考える。人間はまず哺乳類。哺乳類は動物。動物は生物。…としていくと行き当たるのは

「存在」である。犬も猫も木もボールも「存在」にカテゴライズされる。我々はみな「存在」なのである。


人間がこの「存在」の中でも、特異なのは「一個体」の死に執着することだと思う。なまじ知能が発達し、様々な感情を会得したことで、他の動物には見られない素晴らしい特異性を身につけた。



今回はその特異性を一旦無視してみよう。


存在レベルで考えてみてほしい。

「存在」というカテゴリーで見れば、全ての存在物はみな等しい。犬を見ても犬としか思わないように。

我々が人間に生まれたのはたまたまだ。他の犬や猫に生まれてもおかしくはなかった。全てが「存在」であるなら、何で存在してもおかしくはない。



生物学的な理論はおいといて、イメージしてほしい。あなたは椅子として存在してもおかしくないのだ。全ての存在が持つ特異性を除外して考えると、全ては等しいのだ。


前提2 質量保存の法則

これも理論の正統性とかは無視してイメージしてほしい。この世の形あるものはいつか壊れる。動物であったら死、である。

死んだあと死体は土に還る。その後は肥料になるかもしれない。木の栄養分になるかもしれない。その木は果実を実らせるかもしれない。

…というように、全ての存在の質量が保存されるのであれば、必ず何かしらの存在に還元されるのだ、とイメージする。

つまり我々を人間ではなく、存在として見ると、どこかに何かしらの形で存在し続けるのである


前提1と前提2を踏まえると、彼女の言っていたこととつながる。犬が死んだとしても、私と同じ存在であるのだから、またどこかで別な形で存在している、と。



こういう思考法でぼくは生きている。こんな話を人にすると、頭がおかしいとよく言われる

この思考法を通してぼくが言いたいことは、死はいずれ訪れるもので、それを過度に恐れていると、生も楽しめなくなるということだ。


せっかく人間として存在しているのだから、この人間ライフを精一杯楽しもう。

そういうことだ。


この思考法で考えてみると、大胆に行動できる。ぼくは会社をやめた。

来世はエーゲ海がいいな。


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さあ、みなさんは来世何がいいですか。

以上だ。

無職が「職業に貴賤なし」を考える

こんにちは、ぼくの考えを聞いてください。

 

「職業に貴賤なし」という言葉がある。一般的な認識では「働くということは皆等しく貴いことで、仕事の内容によって、その人を差別すべきではない」という意味でつかわれるだろう。

 

この言葉を巡って、なにやら言い争いが起こってるようだ。

 

高収入の人が作った綺麗ごとだ、現実問題として職業差別は存在する、とか。

 

ぼくはみんなが喧嘩するところを見たくないので、考えた。

 

ちなみにぼくは、新卒で入った会社を二週間で辞めている。外部からの視点も必要であろうということで、無職のぼくがこの言葉を考えてみる。

 

 

〇なぜ働くのか

え~まずなぜ働くのかというところから入ろう。、「やりがいが~」とか「社会に貢献~」とかいう思ってもない嘘はつかなくてよい。

 

 

原始時代に就活があったら、絶対落ちるよ。

 

人間が働くのは単に生存手段である。この社会において食うためには働かなければならない。原始の時代、ほかの動物に比べ、身体的に劣る人間がこの地球で生きてくためには、社会を作って役割を分担しなければならなかった。

 

つまり働くことが善であるかとか悪であるとかいう話ではなく、生きるために働き、生きるために社会は生まれたのだ。陳腐な言い回しになるが、人は一人では生きられないのだ。

 

〇職業とは

こうして社会が生まれると、次に発展し始める。狩りが得意な人は狩りのみに。道具を作るのが上手な人はそれのみに従事するだろう。そのほうが効率がよく、利益が最大化されるからだ。すべての人に役割が与えられ、責任をもって受け持つ。ここで重要なのは誰一人も犠牲になっていないということだ。

 

これによって集団からひとつ発展した高度な分業社会が生まれる。でいろいろあって現在に至る。

 

 

〇職業に貴賤はない!

 

ない。これはぼくが死に物狂いで7、8分考えて出した結論だ。

上記の前提で考えていくと職業に貴賤はありようがない。なぜなら必要で生まれているからだ。貴賤があるとするなら、職業に貴賤とか言い出しちゃう、人間自体に存在するのだろう。どんな仕事も必要だから生まれ、誰かがそれを担わなければならないのだ。

 

確かに役割分担を行っていくと、重要度に差異は生じるであろう。総理大臣とコンビニ店員の重要度は違うだろう。

だがどちらも誰かがやらないと困るのである。首相もコンビニがないと夜食買いに行けないだろう。そこに貴賤を生み出すのはもうひねくれすぎ。必要だからその仕事は生まれたのであって、もし誰からも必要とされていなければ、そんな職業は存在しないはずだ。

 

そして重要になってくるのはその仕事とどう向き合うかだ。どんな仕事も必要があるのだからすべての人はその仕事に誠実に取り組む必要がある。理想論として総理大臣もコンビニ店員も誠実に行わなければならないのだ。何度も繰り返すが貴賤があるとしたら人間だ。無職のぼくがこんなことを言っているのだ。

 

人を職業で見下す人がいる。こんなに社会貢献している自分のほうが正義で、あんなみっともない職業についているあの人は悪だ、と。

 

職業が生まれた背景を考えると、そこに善悪が介入する余地はない。どんな仕事についてもよい。あなたは社会に必要だ

 

という結論になった。どうだろうか?

お前が言うな。

 

という声が雨あられのように聞こえてくる。そう、ぼくが貴賤の賤側の人間であるということは言うまでもない。以上だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海外を旅するのに英語力はマジでいらない

 

こんにちは、英語力に不安があって海外旅行ためらっている人いますよね。

 

最初に断言する。英語力はいらない。刺身についてるタンポポの花くらいいらない。

 

極端な話、英単語を一つもしらなくても大丈夫。

 

嘘つけと思うだろうか。現にぼくはユーラシア大陸横断に成功した。ほぼ英語はしゃべられないのにだ。

 

英語が喋られないのにもかかわらず、ハンガリーでヒッチハイクし、ギリシャでおばさんとボートで火山に行き、インドでお金持ちの家にホームステイをしてお金をもらったりした。


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なぜそんなことができるか。英語ができなくてもコミュニケーションが取れることを理解しているからである。

 

お腹がすいたらご飯をかきこむジェスチャーをすればいい、胃薬が欲しければお腹を押さえるジェスチャーをすればよい。

 

どうにでもなるのである。

 

 

〇我々は同じ人間である

「世界の果てまで行ってQ」で出川哲郎さんが、海外でミッションを与えられこなす、はじめてのおつかいというコーナーがある。

 

出川さんは全く英語が出来ず、出川イングリッシュと馬鹿にされるが、なんだかんだ毎回目的を達成する。全くためらわずに怖そうな黒人の方に話しかけていく姿には感嘆した。

 

 

スタッフの「なんでためらわずに話かけられるのですか?」という問いに「同じ人間だからとしか言いようがない。」と答えた。

 

 

そう、同じ人間だから過度に恐れる必要もないし、過度に近づく必要もない、フツーにしていればよい。

 

 

日本人にありがちな傾向として難しい文法を使おうとする、ということがある。はっきり言ってそんなことをする必要はない。連中の文法は崩壊している。てきとうにok,ok言っておけばよい。(※OKとはわかったという意味である。)

 

 

〇【厳選】とはいえ覚えておきたいフレーズ

 

まあべつに覚えておかなくてもよいが、覚えているとより旅が充実するフレーズをいくつか紹介しよう。そんなフレーズしってるわ!とかいう人はとっとと旅に出てください。

 

その1   Sorry?(ソォリィ?)  

     :意味「なんて?」

聞き返すときに使います。日本人はpardon?をなぜか使いたがりますが、ぼくは英語圏でこれを使っている人見たことがありません。みんなこれを使います。これを使っとけばとりあえずサマになります。何回も聞き返すとぶちギレられます

 

その2 Do you have ~?(ドゥ ユウ ハブ~?)

    :意味「~はありますか?」

店で商品を探すときや、飲食店でそれがあるか聞きたいときに使います。万能です。自分の探しているものが英語でいえない時はどうにかしてください。

 

その3 Can I have   ~?(キャナイハブ~?)

    :意味「~してもいいですか」

これはめっちゃ使います。料理を注文するときメニューを指さしてこれを言えば通じます。have以外でもなんでも使えます。have以外でやりたいことの英語がわからなければ、ジェスチャーでも十分通じます。通じなかったらそいつがバカです。

 

その4 Could you ~?(クッジュウ~?)

     :意味「してもらってもいいですか?」

相手に何かしてほしい時に使います。例えば窓を開けてほしい時、窓を指さして開ける仕草をすれば開けてくれます。自分で開けろといわれたら知りません。

 

 

以上の4つのフレーズを覚えておけば余裕だ。ひとまずユーラシア大陸は横断できる。

 

 

〇知識より気持ち

日本人は自分の英語が間違っているかどうかを不安に思って、なかなか話しかけない。話しかけなかったら何も起こらない。

 

 

まず話しかけてみよう。気持ちが通じればきちんと思いを汲んでくれるはずだ。

 

さあこれで不安はなくなっただろう。今日から世界は君の遊び場だ!

 
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